お勉強diary

心理学関連の通信教育、学会、書籍等の感想を書いて行きます。

「オープンダイアローグと中動態の世界」に行ってきました。

ODNJPシンポジウム:オープンダイアローグと中動態の世界」に行ってきました。

渋谷から歩いていくと、都会の中にぽっと現れる東大駒場キャンパスは、なんだかパワースポットのようです。
國分功一郎氏の講演を聞くのは2回目で、「中動態の世界 意志と責任の考古学」は一度細かく読書会したことがあったし、斎藤環さんのオープンダイアローグの本も読んでいたし、今年はべてる祭りにも行っていたのでいろんなものが繋がって、面白かったです。

心に残ったトピックは以下です。

 

リベラリズムの求める大人に全員なれたのか
斎藤環さんのプレゼンの中で支援現場で「オレンジジュースにしますか?りんごジュースにしますか?」という選択をさせるのはインフォームドコンセントのように見えて、その実選ばせてない、というお話をされていました。「意思のリベラリズム」という表現で國分功一郎さんがかなりの発見という感じで応答されてましたが、リベラリズムの求める大人、というものだけで社会は形成されなかったということを注視するべきだというのは大きく頷けるところでした。
限られた選択肢だけの中で「自由」を取っているように見せること自体に、無理が生じてきているということだと理解しました。

■課題を「外在化させる」手法
中動態の考え方の中で、一番、当事者研究やこのオープンダイアローグ、そして一般的にも受けてる部分がこれだと思います。行為を事象とみなす。(みなすというか、中動態の論の中ではそこで起こっていることにすぎない、という考え方。今回の斎藤環さんのプレゼンの中からいうと「「親が死んだらどうするの?」を「就労現象についての君の考えを聞かせてほしい」と言い換える。」ということ)
高木さんは関西でチームで訪問を続けることでACTを14、5年続けていて、地域の中で重度精神障害の方を支える試みをされていて普及させようとしたが全くできなかったとのこと。(ここでのACTは「Assertive Community Treatment=包括型地域生活支援プログラム」でAcceptance and commitment therapyではない)
その支援の中で、未来語りから現在を考えるという手法の実践のお話をされていて、それはゴールを決めてPDCAを回したり、ゴールに向かって振り返りを行うKPTのようだな、と思いました。当事者研究やオープンダイアローグの話を見聞きしていていつも思うのはビジネス現場の最新ツールとすごく相性が良さそうだな、ということですね。
ただし、人の人生そのものを扱う精神医療の現場の場合、「ゴール」ってどう設定するのだろう、との疑問も持ちました。
能動態/受動態と中動態の議論については、文法を論じることであり、つまり歴史を紐解くことであり、単純にワクワクする面白さがあるなあと聞き入ってました。

■オープンダイアローグが広まった場合臨床心理士精神科医どこまで必要か問題
会場からのコメントの中で医学生の方から「精神医学を学んでいても、今議論されているような複雑な社会に対応する勉強をしている気がしない。精神科の医者というのは必要なのかわからなくなる」というのが出ていて、斎藤環さんがオープンダイアローグの手法を公開することで医者はいらなくなるかもしれないとおっしゃっていてラジカルぅぅぅと思いました。
臨床心理士についても、ディスカッションで登壇された臨床心理士信田さよ子さんが保険診療外でカウンセリングをすることにお金をもらうこと自体が「お布施のよう」「常に自信がない」とおっしゃっていて、確かに個人事業として当事者と向き合うのは医療のように標準の正解があるわけではないということで、このように言い切られていたのが痛快でした。また「中動態の概念は自信をもらえる」「オープンダイアローグで責任を分散させる」ともおっしゃっていて、援助者の側をも助けるツールとなることは、長く続ける加療の現場で重要なファクターとなるのではないかと思いました。

■人の行動の責任はどこにあるのか?
これは一番大きな論点でありながら、当日答えが出なかったところのように思います。答えが出ないということが答えなのでしょうか?
高木さんが社会・人生を渦と捉え、どう巻き込まれるかは運。支援はそこにうまく巻き込まれるように援助すること、というようなことをおっしゃっていて、今のところそれが一番しっくりときましたが、同時にやるせなさも感じました。なんとなく「目の前のことを頑張る」という何かこう、仕事を断れない人というか、芯のない感じに見えるというか。そんなことはまた別の議論なのでしょうけど、「意志」の設定についてはまだまだ議論される論点だということなのですね。
(そもそも「意思と責任の考古学」なのですし)

 

 

心理学も、薬物を用いた精神医療も、勉強すればするほどに曖昧な何かの中に突っ込んでいくことを感じます。
べてるの家での実践や、ダルクでの支援を見聞きして思うのは、社会から疎外された存在を"救済"するためには、現在の状態を中動態的に捉えた上で支援組織(または家族などの共同体)につなげることが必要だし、それは常に頼れるものでなければならず、宗教ではないそう言ったものを存在させること自体が社会機能として重要なのではないか、ということです。どうなのでしょう。たくさんの当事者組織のピア活動が必要とされるのはこういうことではないか、と思いました。

 

「思いました。」って小学生の感想文のようですね。特に「意思」の議論についてはなかなかまとめるのは難しいお話でした。すべて放棄することが可能なのでしょうか?意思以外の何によって人は行動を起こすのでしょうか?私にはまだ疑問で、言語化できないことです。
ところで今回言及されていた「ハームリダクションのダークサイドに関する社会学的考察・序説」は「当事者研究と専門知」に掲載されているのですね。あの本全然来ないっす。発売前に予約しておくべきでした。